もう
ひとつの
幸せ論
Finding ture happiness
99%の人が
教えられてきた
「一般的な価値観」とは
私たちは、
子どものころから、
「あるひとつの教育」
を受けて育ってきました。
それは、
「今、足りないものを
リストアップして、
それを手に入れたら幸せだが、
手に入れられなければ不幸だ」
という価値観です。
たとえば学校で、
「数学が不得意」
といえば、
数学を頑張って勉強しろ
と言われる。
「漢字の書き取りが不得意」
といえば、
漢字の勉強をして
もっと漢字ができるようになれ
と言われる。
「根性が足りない」
ということになれば、
「根性を持て」、
「もっと努力しなければいけない」、
「もっと頑張らなければいけない」
と言われることになります。
「ここが足りない、
あれが足りない。
足りないものを
手に入れるために
努力をしろ。頑張れ。
努力しないヤツはダメだ」
という価値観を叩き込まれました。
「洗脳された」
といってもかまいません。
私自身、子どものころ、
父親からそういう
「洗脳教育」
を徹底的に叩き込まれました。
「努力しないヤツはダメだ」
「頑張らないヤツはダメだ」
「そういうヤツは、
社会的な価値がないんだ。
生きていても意味がないんだ」
と、何十万回、
父親に言われたかわかりません。
99%の人がそうであるように、
家庭でも学校でも
そういう教育を受けました。
ですから、
私も昔は、
世の中には
「そういう価値観しかないんだ」
と思い込まされて育ってきました。
「人間の価値」
を教えてくれた
長女の存在
普通だったら、その
「ひとつの価値観」
だけで一生涯を
終えていたことでしょう。
私にとって幸運だったのは、
結婚して3年後に、
やっと生まれた長女が、
「知的障害児であった」
ということでした。
この子には、
「欠点」を指摘しても、
意味がありません。
そもそも
「欠点の意味」が、
彼女にはわかりません。
なぜ、努力をしなければいけないのか?
なぜ、頑張らなければいけないのか?
その「意味」がわかりません。
ただ彼女は、
ニコニコと楽しそうに、
私たちに微笑みかけるだけでした。
私たちは、
ずいぶんこの子によって
癒されました。
いろんな事件もありましたが、
この子をずっと見ていて、
この子とつきあっていく中で
わかったこと…。
それは、
「人間の価値」は、
努力すること、
頑張ることでは
決まらないということ。
人間の価値は…、
「そこにいるだけで喜ばれる存在になる」
こと。
「そこに座っていてくれるだけで
まわりの人がやすらいだり、
静かな気持ちになったり、
穏やかな気持ちになったり、
温かい気持ちになったりする、
そういう存在になる」
こと。
つまり、
笑ったり、感謝したり、
頼まれごとをしたりすることで、
「よき仲間に囲まれ」て、
「喜ばれる存在になる」ことこそ、
人間の価値であり、
人生の目的であり、
だからこそ、
「人生は楽しむためにある」
ということでした。
人間の価値、
人間の幸せには、
実は、
「もうひとつ別の世界があった」
ということが、
この長女と暮らす中で
わかったのです。
一般的に教えられていた価値観には、
「今、足りないものを挙げつらねて、
それを手に入れるために努力する、
頑張るという人間の価値、生き方」
というのがあります。
それはそれで否定はしません。
しかも、
世の中の価値観は、
99%がそのようにできあがっています。
ほとんどの人がそう思わされ、
そういう教育を受けてきました。
ですが、
「もうひとつの価値観がある」
ということに気がついたのです。
それは、
「今、足りていない10個のもの」
を追い求めるのではなく、
「すでに与えられている9990の恵み」
に、感謝をすることです。
今、足りないものを
10個挙げつらねて、
「それを手に入れるまでは不幸であり、
手に入れたら幸せだ」
という価値観も、
たしかに存在しています。
そういうことで
幸せを感じたり、
満足感を感じたりする人も
少なくはないのでしょう。
けれども、
足りないものを挙げつらねる
99 %の人々とは逆に、
「もうひとつの幸せ論」
というものに目覚めている
「1%の人々」
が、実はいるのです。
それは…、
今、自分がどれほど
たくさんのものに
恵まれているか今、
自分がどれほどたくさんの
よき仲間に囲まれているかその、
今の自分の状態に、
感謝をしながら
生きている人々
です
今、すでに
恵まれている
たくさんのものに
「感謝」する
今、足りないものを
10個リストアップして、
探し出す。
それを一覧表にする。
それにもエネルギーが必要です。
ましてや、
それを手に入れるとなれば、
もっとエネルギーが
たくさん必要です。
しかし、
「すでに恵まれている9990のもの」
のうち、
そのいくつかにでも気がついて、
それをリストアップし…、
「今、自分はこんなに恵まれているんだ」
「今、自分はこんなによき仲間に囲まれているんだ」
ということに気がついたとき、
私たちはいくらでも
「感謝」をすることができる
のです。
知的障害を持つわが子ですが…、
その子は1人で食事ができます。
1人でお風呂に入ることもできます。
トイレも1人で入ることができます。
勤め先に自分1人で行き、
勤め先から自分1人で
帰ってくることができます。
洗濯物を取り入れて、
きちんとたたんでいる姿を見て、
私は感動したことがありました。
日常生活がなかなか自由に、
自分1人ではできない
障害を持つ人も
たくさん知っています。
ですが、
我が家の子どもは、
日常生活を送る分には、
何の支障もありません。
自分で「したい」
と思うことは、
自分1人でできるのです。
たくさんの恵みを
神から与えられています。
ですから、
私は、この子に、
「こうなってくれ」
「ああなってくれ」
という気持ちは
まったくわいてきません。
たくさんの恵みを
神様からいただけていることに、
ただただ「感謝をするのみ」
です。
すでにたくさんのものを
いただいているので、
「ありがたい」
「感謝だ」
というふうな見方をしています。
なので、
今、足りないものを
挙げつらねて、
「あれもほしい」
「これもほしい」
という気持ちは、
まったくありません。
なぜなら、
たくさんのものを
いただいているのに、
「あれをよこせ」、
「これをよこせ」
というのは、
どうも違うと思うのです。
「夢」や「希望」は、
人間の向上心から
くるものなのか?
「夢」や「希望」
という言葉を
検証してみます。
「夢」や「希望」
というのは、
もしかすると…、
足りないものを
あれこれ挙げつらねて、
もっとほしい、
まだまだほしい、
手に入れたいと言っていること
にほかならないのかもしれません。
「夢」や「希望」
という
「聞き心地のよい言葉」で、
実は、私たちは、
「欲望」をかきたてられ、
「要求」を宇宙に向かって
突きつけるのがいいことだ、
とずっと洗脳させられてきた
のかもしれません。
それとは逆に
「今いただいているものに感謝」
という概念が
あちこちに入り込んでくると、
「夢」や「希望」
というものが、
いちじるしく減っていくこと
に気がつきました。
人間は、
「今、いただいているものに気がつき、
感謝をはじめる」と、
あれがほしい、
これがほしいという気持ちが、
いちじるしく減っていく
ようなのです。
「でも、人間には向上心が必要ではないのか」
と言う人がいます。
一般的にいわれる
「向上心」というものは、
本当に必要なのでしょうか?
「あれをよこせ、これもよこせ、あれもほしい、
これもほしいと言っている人間の向上心」
というものと、
「あれに気がついて感謝」、
「これに気がついて感謝」、
「まわりの人に感謝」、
「天上界の方々に感謝」
をしている人の向上心と、
どちらが本当の向上心なのでしょうか。
世の中の出来事というのは、
1人でできることなどは、
たぶん、ひとつもない
のではないかと思います。
「すべてのことは全部、
自分以外の方々のおかげで
成り立っている」
そこに気がついて
「感謝すること」
のほうがむしろ、
人間として向上すること
なのかもしれません。
自分の「我」で、
自分の「意思」で
何かを手に入れたいと思うことが、
はたして向上心といえるのかどうか、
よく考えてみたいところです。
「もうひとつの幸せ論」
を実践する1%の人々
そうやって、
40年ほど、
宇宙のしくみ、
構造などに
興味を持ち、
研究を続けてきましたが、
その結果、
わかったこと。
幸せというものは…、
「今、足りないものを探して、手に入れること」
ではなくて、
「自分がすでにいただいているものに感謝し、
自分が恵まれていることに気がつき、
嬉しい、楽しい、幸せ…、
と生きていること」
なのです。
そして、
そのために
「実践」することは…、
「思いを持たず」、
よき仲間からの
「頼まれごと」
をただやって、
どんな問題が起こっても、
すべてに感謝する(受け入れる)
ことであり、
「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」
を生活の中で実践することであり、
「ありがとう」
を口に出して言い、
逆に
「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」
を言わないことなのです。
すると、
すべての問題も出来事も、
幸せに感じて
「よき仲間に囲まれる」
ことになり、
「喜ばれる存在」になる、
これこそが
「人生の目的」であり、
「幸せの本質」なのです。
99%の人々が教え込まれてきた
「一般的にいわれる幸せ論」
ではなく、
1%の人々が実践する
「もうひとつの幸せ論」
を実践してみてはどうでしょう?
すでにいただいているもの
に気がついて感謝すること
ができれば、
もうすでに
「十分幸せ」
なのです。
そしてそういうことに気がつき、
「もうひとつの幸せ論」
のほうに移っていった場合、
競うことも、比べることも、争うことも、
1番になることもない
ということがわかってきます。
しかも、
「宇宙の法則」
としては、
「感謝の量が多い人ほど、
天上界の方々の支援、
応援を受けられる」
ようなのです。
あれをよこせ、
これをよこせ、
あれもほしい、
これもほしい
と言っている人は、
実は、
それを「夢」や「希望」
という名前で呼んで
ごまかしているだけです。
本当は、
「今、自分を取り巻いている状況が気に入らない」。
天上界の方々が
今の自分の現状を
つくってることに
「自分は気に入らないんだ」
と、宣戦布告している
のかもしれません。
今、すでにたくさんのもの
をいただいている。
それに気がつき、
感謝。
そして、
「ありがとう」
をたくさん口にしている。
そういう人に対しては、
天上界の方々は
「あぁ、気がついているのか。
それならば、
もっと応援してあげようかな」
と思ってくれるような気がします。
私のまわりには、
今、この
「もうひとつの幸せ論」
で生きている人がたくさんいます。
99%の人々が教え込まれてきた
「一般的にいわれる幸せ論」
ではなく、
1%の人々が実践する
「もうひとつの幸せ論」
で生きている人のほうが、
はるかに幸せそうです。
この本を
読み終わったあなたは、
読み終わっただけで、
ものすごく幸せに囲まれている
かもしれません。
ものすごい幸せを
感じているかもしれません。
なぜならば、
「幸せの本質」とは…、
「何かを手に入れることではなく、
すでに幸せに囲まれていたこと
に気がつくだけ」
だったからです。
さぁ、この本は、
「秘密の花園」
の入口である
「もうひとつの幸せ論」
です。
少数派ではありますが、
こちらの幸せ論は、
「ラクで楽しい幸せ論」
です。
どうぞ、
遠慮なくお入りください。
出典:もうひとつの幸せ論
おしまい
●人生は、
努力するものではなく、
「楽しむためのもの」
●日本人は
「比べない、競い合わない、争わない」民族
●病気が治った人の共通項は
「病気に感謝」している人々
●よき仲間を得ることは、
聖なる道の「すべて」である
●親の思い通りに子どもを
育てないことこそ、
最良の子育て
●事故、病気、災難が起きるのは
「魂の成長」に必要だから
●人間には
「喜ばれると嬉しいという本能」
が与えられている
●掃除・笑い・感謝をすると、
お金・健康・よき仲間に囲まれる
など、
ほとんどの人が教えられた
「一般的な幸せ論」ではなく、
100%幸せな人々が実践する
「もうひとつの幸せ論」
「人生の目的」とは
「喜ばれる存在になること」です。
「思い」を持たず、
「頼まれごと」をただやって、
どんな問題が起こっても、
すべてに感謝することであり、
「ありがとう」を言い、
「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」
を言わないことで、
「よき仲間に囲まれ」て
「喜ばれる存在」になる
……これこそが
「人生の目的」
であり
「幸せの本質」
なのです。