人生は、
「修行の場」としてではなく、
「感謝の場」として存在する話
ある方から、
「この世は修行の場なのですね。
この世では、
我慢や忍耐をして
生きて行かなければならないのですね。
目の前の出来事はすべて
修行のために存在してるのだから、
立ち向かったり、
乗り越えなければならないのですね」
という質問をいただきました。
「人生=修行」
ととらえても、かまいませんが、
宇宙の構造としては、
「修行の場」として
設定されているわけではありません。
私たちの目の前に起こる現象は、
すべて「ゼロ(中立/ニュートラル)」
なのではないでしょうか。
物事を捉える力を
「認識力」と呼ぶなら、
認識力が上がるにしたがって、
この世の中を
「3つの段階」で
解釈するようになります。
①第一段階
「この世は、修行の場である」
②第二段階
「この世は、喜びの場である」
③第三段階
「この世は、感謝の場である」
①第一段階
「この世は、修行の場である」
目の前の現象は、
「私」に修行させるために
存在している。
「人生は苦しみに満ちている」
と悲劇にくれるより、
「苦しみや悲しみを乗り越えていくしかない」
と考える人の方が、
まだ一歩前進していると思います。
そう思うことで気持ちが
ラクになるのであれば、
そのようにとらえてもいいと思います。
ただ、本質的には、
この世は「修行の場」
ではありません。
②第二段階
「この世は、喜びの場である」
私たちが
肉体を持って生まれてきたのは、
「人生を喜ぶためではないか」
と考えることもできます。
このように認識することができたら、
認識力は「3分の2」
(100点満点中の66点か67点)
まで行ったと言えるでしょう。
③第三段階
「この世は、感謝の場である」
100点満点中の99点、
あるいは100点のとらえ方は、
「この世は修行の場でもなく、
幸せや喜びの場でもなく、
実は、感謝の場である」
ことに気づくことです。
たとえば、
自分の会社が倒産し、
職を失ったとします。
その時、
「自分はこういう状況に耐えて、
我慢し続けることで
人生の修行をしている」と、
「第一段階」のとらえ方をする人が
いてもおかしくありません。
ところが、
認識力が「第二段階」まで上がっていると、
「この会社を辞めて
新しい仕事ができることは、
とても嬉しく、楽しく、
幸せなことだ」
と思うようになります。
そして、
認識力の一番奥にある
「第三段階」では、
「新しい仕事を探さなければ
いけなくなったからこそ、
天職や天命に出会える」と、
「会社が倒産したこと」にも
感謝できるのです。
私は、
「感謝の場だと捉えるべきだ」
という「べき論」を
言っているのではありません。
「修行の場」
だと捉えることで、
人生が楽しくなるなら、
それでもいい。
しかし、
「修行の場」
と思うよりも
「この世は感謝に満ちている」
と考えることで
ラクに生きられるのであれば、
そのように認識を変えればいい
と思います。
現象自体はゼロです。
「修行」でも、
「喜び」でも、
「感謝」でも、
どんな色をつけても
自由です。
自由とは
「自ら由る(みずからよる)」
と書きます。
自由のとらえ方、
認識の力が、
この世の評価を決めるのです。
おしまい