「断っていい頼まれごと」の話
断ってもいい頼まれごと三原則
「頼まれごと」は
基本的には
断らないほうがいい
と思います。
ただし、
「頼まれごと」
であっても
「断っていい3原則」
というものを、
私なりに発見しました。
断っていいことの1つ目
断っていいことの一つ目は、
「お金」「借金」の頼まれごと
です。
「お金を貸してほしいと言われて、
それも頼まれごとだから
必ず応じなければいいけないのか」
という質問がたくさんありました。
「応じなくてよい」
というのが私の答えです。
というのは、
「お金を貸してほしい」
という頼まれごとは、
その人に用事があるのではありません。
「お金に用事」があるわけです。
ですから、
断っていいと思います。
お金さえ手に入れば、
その人である必要は全然ない
というのが借金です。
断っていいことの2つ目
断っていいことの2番目。
それは
「頭数を揃えたい」
というものです。
「忘年会で欠席者が出てしまった。
10人で予約しているので、
9人だと困る。
急遽来てくれないか」
「明日、ゴルフなんだけれども
ひとり足りない。
来てくれないか」
というような
「頼まれごと」
です。
これも
その人の個性や
人格に関わり
があるわけではありません。
ただ数さえいれば
いいだけなので、
断っていいと思います。
「頭数を揃えるためだけに声がかかったもの」
というのは、
基本的に
「頼まれごと」
ととらえなくていいと思います。
断っていいことの3つ目
3つ目は、
「完全にできない
ということがわかっているもの」
です。
たとえば
「300キロのバーベルを持ち上げてくれ」
と私が言われたとします。
300キロのバーべルなど
持ち上げたこともありませんが、
チャレンジしてみよう
という気にもなりません。
それは絶対に無理である
ということがわかっているからです。
オリンピックの選手でさえ
そんな重さを持ち上げません。
ましてや
虚弱体質の私に
それができるわけがありません。
「月へ行って月の石を
拾ってきてくれないだろうか」
と言われても、
それはできません。
お断りするしかありません。
「初めからできないことがわかっているもの」
については
断ってもよいと思います。
引き受けた方が良い場合は?
しかし、
たとえば
「PTAの役員をやって」
「3分間のスピーチをして」
とかいう話については、
やったことがないので
あればできるかどうかわかりません。
そういう場合は、
「できない」
と断るのではなくて、
「わかりました。お引き受けします」
と引き受けたほうがよい
ように思います。
神様が見ていて、
「たぶんこの人はできるだろう」
と思うから頼んでくるわけです。
ですから、
やったことがなくて
できるかわからないことについては、
引き受けるとよいと思います。
しかし、
「何でも引き受ける」
と気負いすぎると、
「できない頼まれごと」
を抱え込み、
やがて行き詰ってしまいます。
すでに先約が入っていて、
スケジュールが取れないものについても、
無理に引き受ける必要はありません。
人間には
「できること」
と
「できないこと」
があるのですから、
「できない頼まれごと」
には、
「できない」
と言ってもいいのです。
「できないこと」
を持ち込まれるとしたら、
その人の中に
「できないことでも
何でも引き受けるぞ」
という気負いがあるからです。
私には、
「できないこと」
は持ち込まれません。
なぜなら、
「気負いがない」
から。
「力がまったく入っていない」
からです。
小林正観さんは、
「頼まれごと」
を引き受け続けていると、
ある時点で、
「自分はこういう方向で必要とされている」
と言う方向性が
見えてくるといいます。
それがいわゆる
「使命」です。
使命とは、
「使われる命」と書きますが、
まさに
「こういうことをするために
世の中に生まれてきたんだ」
と気づくことです。
頼まれごとは、
自分の好き嫌いとは関係ない
ことがやってきます。
思ってもみないようなことです。
そういう頼まれごとを
受け続けていると、
思ってもみなかった
人生になります。
これは「夢」や「目標」を叶える、
という従来より
教えらえてきた生き方
とは違う生き方です。
それは、
自分の想いをもたず、
淡々と生きること。
つまり
「執着を捨てる」
ということです。
仏教では、
お釈迦さまは
「生きるということは
思い通りにならないということ」
だから
「執着を捨てなさい」
といいます。
執着を捨てるとは、
「こだわらない」
「引きずらない」
「決め打たない」
「我を通さない」
ということです。
「頼まれごとの人生」
これもまた
素敵な人生だと思います。
おしまい